干天の慈雨【二】

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【二・笑ふ。】

1

 シンクに向かい、悠介は空になった食器を洗う。流水の冷たさに、眠気が薄れていく。
 随分疲れている様だったと、仁朗の様子を思い返す。心配する一方、何故か見送られた少女に羨望も抱いてしまう。浅ましい自分自身を誤魔化すように、深く息を吐いた。

 ――ふと、視界に写り込んだのは、先に仁朗が使ったグラス。
 悠介は後ろを振り返る。誰もいない。

 グラスを掴んで、水道水を注ぐ。そのまま勢いよく煽り、一息に飲み干す。
 まだ、仁朗がシャワーから上がってくる気配はなかった。

*****

 悠介は抜群の感性を抱いて生まれた。例えば小学校に入ってすぐ、コンクールに出品されたクレヨン画は「瑞々しい感情に溢れている」と絶賛され、金賞を受賞した。
 一方で学業やスポーツの成績はいつだって並の上がせいぜい。正直なところ、わざと手を抜いていた部分もある。どんな競争も、勝者がいれば必ず敗者が存在する。繊細故に優しすぎる悠介は、誰かを蹴落としてまで実力を示したいと思えなかったのだ。

『ふふ。悠介、もっと目立たないと女の子にモテないわよ?』

 いつかの運動会での出来事。徒競走で三着になった悠介を、母はからかい混じりに突っついた。
 幼い悠介は内心ドギマギしつつ、笑顔を崩さない。「本気を出していないのだ」と告白する勇気はなかった。

『別に僕、モテなくてもいいんだ。――あ、見て、お母さん。あそこの木にメジロがいるよ! 綺麗だなぁ』

 とっさに視界に入った鳥に夢中になったふりをして、悠介は器用に話を逸らす。「揺蕩うように生きるのが、一番楽」だと信じていた。

 しかし、思春期を迎えた頃、”自分は何者なのか”という思いも胸に巣食い出す。

『橘くん、好きな人っている?』
『あ……。ごめん、僕そういうのよく分からなくて』

 可愛らしい顔立ちのせいか、よく女子に好意を持たれた。しかし、悠介は一度もそれに応えなかった。どうしていいか分からなかったのだ。自分自身がどんな性格で、何を求めているのかも知らない。夢も欲も見つからない。
 あいかわらず絵を描けば絶賛される。それでも、半透明の空虚さで胸が一杯になって、時々呼吸の仕方さえ忘れてしまう。

 ――けれど。解放は唐突にやってきた。

『先生。この花、誰が飾り付けたんですか?』
『あら、興味がある? これは華道部の部長の作品。……ねぇ、橘くん。もし良かったら入部しない? 顧問は私なの』

 頬を紅潮させる悠介に、学年主任の教諭・鏑木由美子(かぶらぎ・ゆみこ)は愛おしげに呼びかけた。
 それは高校一年の学年末。職員室前に飾られた花々に、悠介の視線は吸い寄せられる。二つ返事で勧誘を受ければ、フワフワとした高揚感に包まれたものだ。

 命あるもので、有限の美を創り上げる華道。その魅力は強烈で、悠介は「これが自分の生きる理由になる」と直感したのだった。

『わぁ。橘くんの作品! 生命感に溢れてて、すっごく綺麗』

 華道部は浮世離れした悠介にとって居心地のよい空間だった。部員はみな真摯に華道と向き合っていて、互いを尊重し合う姿勢を忘れない。凛とした空気の中にも温もりがあったのだ。

 ――高校二年の半ば、社会人も参加する華道の全国大会で優勝した。
 ――進学を辞め、大手フラワーデザイナー事務所に就職。技法こそ華道と異なるが、制作にひたすら取り組んだ結果クオリティも上がり、世間から評価を受けるようになった。

 結論から言えば、悠介は加速度的に頭角を現した。

 丁寧なヒアリングを行い、贈答される人物に似合う三色のイメージカラーを選び出す。そして中でも一番悠介が「ふさわしい」と感じる花々を使って、作品を組み上げるのだ。
 老舗企業の社長、芸能人や議員。誰もが悠介のコーディネートの才能を賛美し、作品を受け取れば笑顔になる。悠介は認められ、求められる事を無邪気に喜んだ。

「このまま、世界は僕を愛し続けてくれる」

 ……自分自身の油断に気付けなかった事を、悠介は今でも悔やんでいる。

2

*****

 忘れもしない夏の日。珍しく有給を取った悠介は、自宅のベッドで寝そべっていた。「疲れが取れたら、録画しておいたドラマを見よう」だなんて、呑気な期待を抱きながら。

 ……けれど、午後二時過ぎにあの電話がかかってきたのだ。窓の向こうでは、晴れているのに小雨がぱらついている。「狐の嫁入り」と呼ばれるその光景は、幻想的なのにどこか不気味だった。

『――橘くん。落ち着いて聞いてね。鏑木先生が、亡くなったわ』
『え?』耳を疑った。『どう、して』
『乳がん、ですって……。私もまだ詳しい事は知らないんだけど、橘くんには伝えておこうと思って』

 華道部の先輩OGの声も、震えていた。

 成人後、悠介は都心のマンションに引っ越してひとり暮らしをしていた。里帰りもろくに出来ないまま、あくせく働いてきたのだ。
 明日も明後日も、依頼は途切れず押し寄せる。代理のコーディネーターを立てようとしても、顧客が承諾するとは思えない。いきなり休暇を申請すれば、事務所に多大な損害を与えるのは確実だった。

 胸が押し潰されるようなプレッシャーに、浅い呼吸を繰り返す。板挟みの状況を打破しようと考えても、結局答えは見つからないまま。

『申し訳ありません! ――ですが、どうしても今回だけは』

 だが……悠介は既に覚悟を決めていた。
 即座に事務所に連絡を入れ、この場にいない筈の上司に向かって何度も頭を下げる。怒鳴りつけられても、一歩も引かない。

『橘くん、貴方は天才だわ。どんな花にも魅力を見つけることが出来るのね』
(――鏑木先生は、僕に華道という生き方を与えてくれた人。)
『どうか、このまま華道を続けて』
(――だから、僕は貴女を見送らなければいけない。)

 何とか要望を通し、通話を終えた瞬間、悠介は嗚咽しながら床にへたり込んだ。頭の中では未だ懐かしい声が響いている。

3

*****

「――介。悠介!」

 ほとんど真っ暗な寝室で、仁朗に肩を揺さぶられて目を覚ました。じっとりとパジャマを濡らす脂汗に、悪夢を見ていたのだと悟る。
 体を起こす気力もない悠介を、パジャマ姿の仁朗は気遣わしげに見下ろしている。自分が情けない。寝室は分けているのに、どれだけ派手に呻いていたのか。

『仕事を放り出すとか、責任感無さすぎ。どれだけお客様の信頼を損ねたかわかってる? 私達も、すごく迷惑した』
『今までも、アンタは社会人としての覚悟に欠けてた。得意先が切れたんなら、もうこっちが我慢する必要もない。これ以上話すことないから、どっか消えろって』

 あれほど貢献したというのに、捨てられるのはあっという間だ。全てを捧げていた事務所は悠介をすっぱりと見限ったのだ。
 存在を無視され、出社しても指示が貰えない。戸惑っていると今度は無様な姿を「落ちこぼれ」と揶揄される。
 適当な雑用も探したものの、「動けば叱責するきっかけを与えるだけだ」と悟ってしまえば体が動かなくなった。

『君は自分から信頼を捨てた。……食い下がるなら勝手にすればいいが、給料は払わん。自業自得だ』

 度重なる恫喝や嘲笑に、やがて悠介は表情を失った。食べ物の味もよく分からず、眠ろうとしても夜中に何度も目覚めてしまう。
 退職した後も、パワハラの後遺症は消えてはくれない。

(――わからない。先生が亡くなった時、僕はどう振る舞えばよかった? 黙って働き続けるのが、正解だった?)

 自問自答を繰り返し、とうとう限界を超えた悠介は、衝動的に電車に飛び込もうとし――妙に明るい視界の中で、仁朗と出会った。

『妙なことを考えるな。生きたいと願っても、生きられなかった人間もいる』

 偶然居合わせただけなのに、仁朗は悠介の右腕を掴んで離さない。久しぶりに触れた他人の体温が染み込んでくる。
 「誰かに身を案じられる事なんて、二度と無いと思っていた」――ぷつり、と堰が切れたように悠介は泣き出し、名も知らぬ隣人の愛に縋り付いた。朽ち果てた命が息を吹き返した感覚が、何だか堪らなかったから。

「”ありがとう”。……もう大丈夫です」
(――誰もが誤解しても、僕は貴方の理解者であり続ける)

 人一倍情の深い命の恩人を、泣き笑いしながら報いる。綺麗な言葉を口にすれば、心のさざなみは鎮まっていった。たとえ、そこに込められた感情が純粋な献身だけでなくとも。

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