干天の慈雨【エピローグ】

【エピローグ:生きよ。】

『仕事が決まったら、出ていきます。これまで払ってもらったお金も必ず返します。いつまでもお世話になりっぱなしじゃ、退屈ですから』

 短い旅路から戻り、一ヶ月以上が経つ。仁朗と悠介の間で交わされる会話には、確かな自己主張がこもるようになった。

「笑美さんのお世話、お願いしますね。僕、戻りが何時になるかわからないので」
「わかってるから心配するな。悔いを残さない様に精一杯挑め」

 真新しい黒スーツを着込んだ悠介は、テーブルで履歴書を見直している。ブライダル企業の採用面接が二時間後に迫っているのだ。
 転職活動中の悠介とは対照的に、ラフな服装でシンクに向かい、皿洗いをしているのは仁朗だ。父にこれまでの失態を真摯に謝罪した結果、白樺ホールディングスは正式な解雇勧告を見送った。謹慎もあと十日ほどで解除される。

 今回の事態を引き起こした関根祥に、直接謝罪は出来ていない。先方からすれば、自分の顔など見たくないに違いないだろう。だのに無理矢理押しかけたら、それはただのエゴでしかない。
 “いつか、互いの納得の行く形で”――それがいつになるかはわからないけれど。

 以前は空白しかなかった壁掛けのカレンダーにも、今では幾つかの赤丸とメモが書き込まれている。
 明後日のメモ欄への書き込みはこうだ――「仁・帰省(一泊)←お土産忘れないで!」。

「……兄貴の顔も、見れるといいけどな……」

 やがて、悠介を見送った仁朗は笑美の仏壇に向かい、読経を始める。一通りの作法が済んでも、すぐには立ち上がらずに遺影に語りかけた。

「『悪かった』――もう二度と、貴女を言い訳にはしないから。どうか、安らかに」

 祈りを捧げた弟は、もうピアノの夢を見ない。

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