干天の慈雨【三】

【三・密か。】

1

 夜中のセレモニーホールは静かだ。遺族もホテルや控室に戻り、葬儀スタッフだけが動き回る空間になる。

 葬儀スタッフは故人をあの世へと送り出すが、喪服の下に隠れているのは所詮ただの人間。仲の良い者もいれば、いがみ合う者もいる。

「あれ、真面目になんとかならんかね、来栖。マジで仏頂面やばいし、この前も遺族に暴言吐いて、過呼吸起こさせたって?」
「わかる。普通ならあんなん速攻でクビだよな。いくら創業者一族でも、許容範囲超えてるわ」

 明朝の葬儀に向けて、二人の中堅スタッフが会場の設営と遺体の見守りを行っている。手の動きこそテキパキとしているが、私語を吐き出し続けるのはいただけない。

「でも、社長も可哀想だよな。問題児の次男しか使いものにならないんだから。……カリスマ経営者だけど、家庭はズタボロか」

 廊下から聞き耳を立てている田宮翔平は、何度目かのため息を吐いた。仁朗の補佐である自分が入室すれば、場の空気は悪くなるに違いない。

「夜だと、案外小声でも響くんですよ? 先輩方」
(――まあ。俺は来栖さんほど腹据わってないから、敢えて踏み込みはしませんけど。)

 尤も、反論したい気持ちもゼロではない。仁朗が葬儀を取り仕切ると、確かにしばしばクレームが寄せられる。だが、それは確固たる信念の裏返しでもあるのだ。

【生前の息子さんをイメージしたフラワーアレンジメントです。ご両親の痛みが、少しでも和らぎますように。】

 証拠の一つが、葬儀後のグリーフケア。各スタッフの特色が現れるこの無償サービスで、仁朗は優秀なフラワーコーディネーターに独自依頼をかけていた。
 そうして出来上がった作品が手元に届けば、遺族達は決まって態度を軟化させるのだ。まるで、心の傷が僅かに癒えたかのように。……とはいえ、田宮も件のコーディネーターの姿を見た事は無いのだけれど。

「……案外、有名人だったりしてな」

 冗談めかして呟いた言葉が真実であると、田宮は結局気付かないまま。――夜は更けていく。

2

*****

 翌朝の八時過ぎ。早番で出社してきた仁朗と共に、田宮は葬儀前のヒアリングに当たっていた。

「最後に電話した時は、おかしな様子はなかったんです……。まさか、あんな。俺が、もっと早く気がついていれば」
「ご自分を責めないで下さい。ありきたりな事しか言えませんが、出来る限りの見送りをさせて頂きます。妹さんの好物や、ご趣味は何でしたか?」

 妹の自死によって、深い悲しみに沈む喪主・関根祥(せきね・しょう)――故人の兄で、たった一人の血縁者らしい――の言葉を、仁朗は表情を変えずに書き取っていく。まるで事情聴取を行う警察官のような佇まいだ。

「あいつ、果物が好きだったんです。それに、ちっちゃい頃は犬の玩具でいつも遊んでて。ほら、撫でると返事をするやつです。やっぱり、寂しかったんでしょうね」

 関根の目元に光るものが滲んだのがテーブル越しにもわかって、田宮は胸をぎゅっ、と締め付けられた気がした。「早くにご両親を無くして支え合って来たんだな。心残りの無いようにしてあげたい」――だが、仁朗は容赦なく正論を投げつけるのだ。

「百歩譲って、カットした果物はまぁ良いでしょう。ですが、玩具を入れるのはやめて下さい。『燃えづらいものは棺には入れないでくれ』と火葬場からも注文がついているので」
(――ちょ! 来栖さん。)

 無情な発言に、関根は戸惑いと怒りが混じりの眼差しを仁朗に向ける。爆発しそうな感情を抑えるように握り締められた拳が震えている。爪が食い込んで白くなった掌を見て、田宮は咄嗟にフォローを入れようとしたが、それよりも前に。

「まぁ、無理にとはいいませんよ。でも、随分偉そうな態度ですね。 貴方はきっと、大切な人を亡くした経験が無いんでしょう……!」

 語気を強めて、関根が仁朗に詰め寄った。対して仁朗も眉間にシワを寄せ――吐き捨てる。

「いいえ。五歳の時に姉を下衆共に殺されましたが、何か? 私の経験から言いますが、死んでしまえば全てお終い。”死後の世界”や”生まれ変わり”なんて、信じるのは無意味なんですよ」

 場が凍りつき、数秒間無音になった。仁朗は目線だけで「さっさと続けろ」と指示したが、田宮はそれに逆らい、小休憩を提案した。こんな殺伐とした有様では、碌に言葉を引き出せないと知っていたから。

 ……結局、疲労困憊した田宮が退勤できたのは、定時から二時間が過ぎた頃だった。

3

*****

 同じ頃、仁朗と悠介が暮らす部屋付のポストが音を立てた。「あ、何か届いた」――気付いたものの、悠介は六畳半の和室で読経を続ける。

 正座して向かい合っているのは、仁朗の姉「来栖笑美(くるす・えみ)」の仏壇だ。

「今日は、凄くいい天気なんです。もう時期、コスモスや孔雀草が見頃になりますよ」

 最後まで経文を読み通してから、悠介は遺影に語りかける。額縁の中の笑美は、長く艷やかな黒髪とはにかんだ笑顔が美しい。その顔立ちは間違いなく仁朗に似ていて、悠介の心を苦しくさせる。

「ねぇ、笑美さん。僕は知らないんです。笑ったり、怒ったりできた頃の仁朗さんのこと。――聞きたいことが、沢山。……たらればなんて、考えても仕方ないけれど」

 身勝手な痛みだと自覚しながら、悠介は僅かに顔を背け、立ち上がった。
 ポストを確認すれば、やはり一通の封筒が届いている。その表面には悠介のフルネームが書かれ、「白樺セレモニーサポート 給与明細在中」という判子も押されていた。

 書棚からハサミを取り出しながら、悠介は自分自身の弱さを恥じる。無菌培養室のように快適なこの部屋に引きこもって、わずかばかりの賃金を得る生活が健全な訳がない。

「……変わらなきゃ、いけないのに」

4

*****

 妹の葬儀が済んだ後、関根祥は何もする気が起きず、暗くて狭い部屋に閉じこもっていた。
 無精髭が伸び、髪もぼさぼさだ。人前に出る予定も気力もないのだから、手入れする必要などない。

 まだ三十代半ばだというのに、もう関根に血縁者はいない。この世界で独りきりになったような心地がして、時々訳もなく叫びだしたくなる。

(――どうして、自分ばかりが苦しいのか。)
(――平々凡々と生きられれば、それで構わないのに。)

 天井からぶら下がったロープの輪に、再び手を伸ばしかけた――。

『関根さーん! お届けものです!』

 場違いに陽気な声が、外から呼びかけてくる。居留守を使うか悩んだが、結局フラフラと立ち上がり、玄関へと向かった。

 薄っぺらい木製のドアを開ければ、中年の男性配達員が洒落た白い箱を持って佇んでいる。ほどんど惰性で、伝票にサインしかけた。

【差出人様:白樺ホールディングス 施設運営部】

 けれど、差出人名を見た途端、ペンが止まる。手が、わなわなと震えだす。

「……これ、いらない。持って帰って」
「は?」
「だから――受け取りを拒否する、って言ってるんだよ!」

 たまらず声を荒げる。怒りに身を任せると、「生きている」という実感が湧いた。

「おい。お前、出版社で働いてたよな?」

 関根は数日ぶりにシャワーを浴び、電話越しの知り合いに早口で告げる。血走った目で、妹の遺影を凝視しながら。

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