干天の慈雨【六】

【六・満天。】

1

「アンタ達、何でったって傘もささずに。いくら若くたって風邪ひくよぉ」

 生活感溢れる古民家を案内されながら、ずぶ濡れの仁朗達はウロウロと視線をさまよわせる。

*****

 ほんの十分前。歩道橋での騒ぎに集まった野次馬をかき分け、泣きじゃくる少女に歩み寄った老女が、柔和に笑って尋ねたのだ。

『あれ、えらい別嬪さんだね。お名前は?』

 頭を優しく撫でてくる掌に、少女は一層激しく嗚咽した。冷え切った体には、低めの体温さえ沁みてたまらない。これ以上、意地なんて張れなかった。

『……”エミ”。荻原、恵美(おぎはら・えみ)っ』
『っ。は?』

 ようやく知った少女の名に、仁朗は目を見開く。死んだ姉と同じ響きだ。
 一人離れた場所に座り込む悠介も、驚きを顕にして少女――恵美を見ている。何かを言いかけて、けれど目を背けてしまう。

『悠介。大丈夫か?』

 深呼吸した後、仁朗は悠介に近付く。拒まれるなんて、想像もせずに。

『大丈夫な訳、無いでしょう……! 頭の中、ぐちゃぐちゃですよ』

 ぼやいた後、悠介は誰にも縋らずに立ち上がって手で顔を覆う。自嘲混じりの歪んだ表情を隠すように。

*****

 結局、そのまま三人は老女の自宅に保護された。胸には未だわだかまりが残っていて、沈黙が重い。

「ほら、タオル。着替えは古いのしか無いけど、いいやね。ほい、帰ったよ!」
「あ、ばーちゃん! おかえりなさい」

 老女が威勢よく声を張り上げると、目の前の障子がぱっと開き、七歳かそこらの少年が飛び出してきた。仁朗たちに気付いても頓着せず、老女にあーだこーだと喋りかける様はまるで陽気な九官鳥だ。

「……可愛い……」

 小さな体に、無邪気な笑顔――出会えなかった命を懐かしんで、恵美はスカートの裾を握りしめる。再び頬を伝いだす涙は、温かい。

「おや。恵美さんは子供好きかい? だったら、孫と遊んでやっておくれよ。――大輝(だいき)、自分の部屋で待ってな」
「ばーちゃん、何でこのおねーちゃん泣いてるの?」
「全く、女に涙の理由を聞くんじゃないよ。ほれ、行った行った!」

2
 居間に通され、老女が用意した服をそれぞれ渡された。どれも年代物らしく、デザインが古臭い。

「お風呂は恵美さんから入り。女の子は体を冷やしたら駄目」

 わざわざ湯張りまでしてくれたらしい。“こんなお人好しがこの世にいるとは”――仁朗が呆れつつ感心していると、視線の先で恵美がおどおどと立ち上がる。どうやら彼女も今の状況に戸惑っている様だった。

「で、問題はこっちの二人さんだ」恵美が出ていってすぐ、老女は苦笑しながら言った。「特に、ちっこいアンタ。まるごと吐き出して、スッキリし。怒ってたり、凹んどったり。雰囲気がごたまぜすぎて、訳がわからん」
「……あなたには関係ないでしょう」
「だったら、今すぐこの家出てくかい? 抜き身のボロボロの癖に、どうなっても知らんよ?」

 反発しかけた悠介が、黙り込む。その唇は震えていて、ありあまる本音をどう表現すべきか迷っていた。仁朗も掛ける言葉を見つけられず、視線をさまよわせる。

「ホント、若いねぇ。軽蔑されようが傷つけようが、手を離したくないんだろ? なりふり構ってる場合じゃない。あたしは行くから、とにかく声に出して伝えるんだよ!」

 言い切ると老婆は立ち上がり、隣室へと消えた。
 沈黙が続く。けれど、不意に視線がぶつかり、互いの輪郭を確かめた時――口火が切られる。

「恵美、さんに嫉妬した。大切な人を取られた気がしたんだ。僕は仁朗さんがいないと、生きていけないのに」恐れを押し殺し、ぽつぽつと悠介は語り出した。「あの子が逃げた時、焦ったけど『間に合わなければ良い』とも思った。なのに……今はそんな自分が嫌で嫌でたまらない……!」

 深く項垂れた真下に、透明な雫が落ちる。仁朗は嗚咽を漏らす悠介の髪を撫でようとしたが、寸前で押し留めた。行き場を無くした手は、宙に浮いたまま握りしめられる。

「お前は、独りきりでも生きていける。それが……人間なんだ」

 突きつけた言葉に、明確な返事はない。もう取り繕うことは出来ず、悠介は床に突っ伏して泣いた。惨めだとは感じない。寧ろ大粒の涙を流すたび、ドロドロとした感情が洗い流されていく気がした。

*****

 畳の部屋で、恵美は大輝から押し付けられた「こんちゅう大百科」のページを捲る。

「でね、角二本がクワガタ。でも、僕はカブトムシのほうが好き」
「どうして?」
「大っきくて、かっこいいもん!」

 物怖じしない性格らしい大輝は、良くも悪くも遠慮がない。寧ろ、初対面の相手だからこそはしゃいでいるのかもしれなかった。

「あ、橙色」夕日が顔を覗かせて、恵美はすっかり晴れたことに気付く。「空気が透き通ってるみたい」

 海岸線まで続く茜空に見惚れる恵美を、大輝が自慢げに振り返った。しかし、ノックの音が発言を遮る。

「大輝。恵美さん達を西照島(にしてるじま)に案内しといで。仁朗さんが車出してくれるっていうから、随分楽だよ」
「もー、ばーちゃん。俺がねーちゃんに教えたかったのに!」

 文句を言いながらも、返事をする声は弾んでいる。唐突な展開に目を色黒させた恵美に、大輝は手を差し出し、歯を見せて笑ったのだ。

3

*****

 西照島はごく小さな離島で、まずは街の外れにある長い橋を渡る。橋を渡りきった後は、大輝の案内で高台へと登っていくのだ。

「ねぇ、何処まで行くの?」
「内緒。ねーちゃん、ビビってんの?」
「っ……。全然!」

 坂道には街灯がほとんど無く、道幅も狭い。対向車が来たら、すれ違うのは至難の業だ。
 ぽつんと走る車内には、後部座席に座る恵美と大輝の掛け合いだけが響く。仁朗は一切口を挟まず、運転だけに集中していた。悠介はどんな顔で会話を切り出せばいいかわからず、じっと外の景色を眺めて黙り込んでいる。

『有咲(ありさ)――あたしの娘はシングルマザーだった。旦那のDVから逃げてきたと思ったら膵臓癌が見つかって、そりゃあ死ぬまで苦しみ抜いたよ。大輝も母親を亡くして塞ぎ込んでさ……。でも、あの空が、取り残されたあたしらを生き返らせてくれた。今のあんた達にも、きっと沁みる筈だよ』

 出かける間際、老婆は目を細めながら仁朗たちに語った。その口調に滲むのは、乗り越えた人間が持つ強さそのもの。

「あのさ。ねーちゃんと悠介はあそこで目瞑って」

 大輝の言う通り、進行方向には出口が見通せないトンネルがあった。暗幕を張った理科室にも似た、興奮と少しの不安を与える人工物。

「勝手に開けちゃ駄目だから! 約束」

 言われるがまま、恵美、次いで悠介が目を瞑る。どうしてだろう? 打ちひしがれていた筈なのに、今や胸が高鳴りつつあるのは。

 やがて、車がペースを落とし、停まる。仁朗はエンジンを切り、シートベルトを外した。見計らったように、大輝が小さな掌を打って合図を送る。

「ほら――『星が降ってくるよ』!」

 待ちきれないとばかりに、大輝が外に駆け出す。慌てた恵美は瞼を上げ――呼吸を忘れた。

「! 綺麗……」

 車のドアを勢いよく開け、恵美は路上に躍り出て歓声を上げた。二、三台の車がやっと駐車できるだけのスペースしかないけれど、窮屈さは一切感じない。
 フロントガラス越しではなく、直接見上げる満天の星が壮大すぎて、感傷も不満も吹っ飛んでしまったから。

 ――濃淡のついた夜空に輝く、無数の星々は零れ落ちんばかり。
 ――そして、眼下に見える夜の海とのコントラストも、何と素晴らしい事か。

 都会では地上の光に負けて掻き消されてしまうような、五等星や六等星までも肉眼で見える。こんなにも普段見上げる夜空に沢山の星が存在するとは、この場にいる誰もが知らなかった。

 続いて降りてきた悠介は、目の前の光景に思わず右手の人差し指を動かし始めたが、やがて諦めて腕を下ろす。

「はは……! 数え切れない」

 頬を紅潮させながら周囲を見回せば、仁朗が未だ車のドアの真横に立ち、はしゃぐ恵美を見つめているのに気づく。

「世界は優しくない――ただ、綺麗なのも本当だな」

 姉と同じ響きを持つ、この世に絶望した少女が星に手を伸ばしながら笑っている。今だけはすべての苦悩を忘れて。

 おずおずと歩み寄ってきた悠介に、仁朗はやわく微笑んだ。もう押し殺されることのない感情の奔流。深々と抉られた胸の内、その深層が癒えていく。
 向き合っても、触れる事はない。それでも、この場に満ちた“希望”の気配に、鼓動が早まっているのは同じだ。

「そんな所でぽつん、としてたら勿体ないですよ。恵美さんを見習って下さい」
「……はっきり言うようになったな、悠介」
「仁朗さんも、ようやく素直になりましたね」

 二人ぼっちの終わりは、存外痛みも喪失感もなく晴れやかだった。

 結局、日付が変わってもこの場所から立ち去れなかった。「夜が明けなければいいのに」と誰もが願っていた。

*****

「あたし、もうちょっと生きてみる。今までがクソみたいだったんだから、これから挽回しなきゃね」

 翌朝、恵美は出会った海水浴場の前で車を降りた。不器用な笑顔には明るさが戻っていて、仁朗と悠介がその背中を追うことはなかった。

「また煮詰まったら遊びに来な。ボケ防止になるし、大輝も喜ぶからねぇ」
「今度ねーちゃん来たら、カブトムシ採るんだ! 仁朗と悠介も一緒」

 大輝を家まで送りとどけて、長い帰路につく。助手席で悠介がうとうとと舟を漕ぐ中、仁朗はただ前を見つめてアクセルを踏み込んだ。その目線は凛と澄み切っている。

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