干天の慈雨【一】

※過去に小説投稿サイトで連載していたオリジナル小説となります。人の死やパワハラ、トラウマなどの描写を含むため、苦手な方はブラウザバックをお願い致します。

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【一・泣かぬ。】

1

 二〇一六年の九月某日。白樺ホールディングス運営のセレモニーホールでは、黒ずくめの人影が行き交っていた。

 その片隅の浴室に、老婆の遺体に湯灌を施している葬儀スタッフの男性がいた。喪服を脱ぎ、動きやすい服装をしている彼は来栖仁朗(くるす・じろう)という。
 長期入院の末に息絶えた老婆の皮膚は垢で酷くガサついているが、仁朗はそれを無駄のない手付きで洗い清めていく。オールバックに整えられた黒髪が滲み出す汗で湿り、一筋額に落ちた。

「……さっぱりしましたね。そろそろ上がりましょう」

 後輩の田宮翔平(たみや・しょうへい)を呼び、二人がかりで遺体を引き上げた後、バスタオルで水気を吸いとる。更に替えの白装束を着せて棺に戻すのだが、これらは腰に負担がかかる重労働だ。とはいえ、この程度で音を上げる人間は、葬儀業界では通用しない。

「お疲れさまです、来栖さん」

 汗を拭った仁朗が再び黒く身を固めている最中、田宮は申し訳無さそうに切り出した。

「一条様なんですが……。やはりお母様が混乱されていて」
「十七時からだったな。昨夜から変わらず?」
「いえ――正直、悪化しています。美里さんのご遺体に何度も声を掛けて、笑っていると」

 田宮の表情に沈痛さが滲む。交通事故で命を落とした八歳の女児・一条美里(いちじょう・みさと)は、司法解剖を経てこのセレモニーホールに運ばれてきた。
 幸い小さな遺体は原型をとどめており、メスの痕も目立たない。死化粧も上手くいった。だが、悲嘆に暮れる母親が心神喪失に陥りかけているのが厄介なのだ。
 昨日行われた通夜では声を上げて泣きじゃくっていたのが、今や「娘は生き返る」と言わんばかりに片時も遺体のそばを離れない。

「死んだ人間が生き返ることはあり得ない」仁朗は眉根を寄せながら吐き捨てる。「何故誰も本当の事を言ってやらない?」
「来栖さん、流石にそれは……。いくら何でも気の毒すぎます」

 辛そうに顔を背ける田宮に、仁朗は唇を引き結ぶ。感化されたのではない。「これ以上の議論は無駄である」と悟ったが故に沈黙したのだった。

2

 一条美里の告別式は、空が夕焼けに染まる頃に始まった。

 白と黄の菊が供えられたホールには故人の同級生が集い、祭壇に視線を投げては嗚咽する。遺族は最早涙も枯れたらしく、呆然とするばかりだ。
 子供の葬儀に渦巻く深い悲しみは、時にベテランの葬儀スタッフさえ飲み込んでしまう。けれど、仁朗は表情一つ変えず、進行を続ける。

「――波羅羯諦 波羅僧羯諦、菩提薩婆訶 般若心経」

 読経と焼香はスムーズに済んだ。いよいよ僧侶が退席し、喪主である父親が締めの挨拶を始めた。

「お忙しいところ、お越しいただきありがとうございます。生前は大変お世話になりました。あの朝、美里は『いってきます。パパ、早く帰ってきてね』と笑って学校に……。けれど、その後すぐに事故に遭って、息を引き取りました」

 父親が声を詰まらせ、俯く。その様を見ていた弔問客もまた涙する。誰もが早すぎる死を悼み、感情を掻き乱されていた。

「みさと。……美里ぉッ! 目を覚ましてっ」

 それが引き金となった。響いた破裂音は、仁朗と田宮が駆け出す靴音。
 甲高い叫びと共に、故人の母親が小さな棺に縋り付く。蓋を開け、愛しい娘の亡骸を持ち去ろうと――。

「辞めて下さい! 一条さんっ、娘さんはもう……」

 場が騒然となる。田宮の説得にも正気を失くした母親は耳を貸さず、羽交い締めにされてもなお暴れ続けるのだ。
 仁朗は棺を背に庇いながら、訳のわからない事を口走る母親を睨みつける。同情しない訳ではない。しかし、現実から目を背け続ける態度がどうしても許せなかった。

「いい加減にしろ! ……貴女の娘は死んだんだ。トラックに轢かれて、死んだんだよ!」

 残酷な言葉を浴びせかければ、母親は目を見開いて動きを止めた。次いで掌で喉を押さえ、喘鳴を漏らし始める。

「しん、だ? 嘘よ。うそよぉ! そんな、筈……ッ……」

 田宮の顔色が変わった。

「一条さん。しっかりして下さい、一条さん!」

 急激なストレスに曝された母親が過呼吸に陥り、その場に倒れ込む。応急処置を施す一方で、仁朗はとうとう謝罪も慰めも口にしなかった。

3

*****

 退勤後、深夜の赤信号の光が仁朗の目を刺す。

『ご迷惑をおかけしました。妻がおかしくなっているのは分かっていたのに、もう、何もかも……どうでもよくて』

 美里の父は、仁朗を責めなかった。パニック状態の母親を止めるのに、他の手段がなかったのも事実。ただ、参列していた子供達はほとんどが泣き出してしまったが。

 ブレーキを踏んですぐ、仁朗は瞼を閉じた。頭の中の靄がかかったところに、懐かしい音色が響く。
 ”理不尽な死の前では、誰ひとり救われない”――理解して諦めないなんて、エゴでしかないのに。

「死は圧倒的な事象だ」軋む心から目を逸らしながら呟く。「早く受け入れたほうがいいに決まっている。時間が経てば経つほど、痛みは増す」

*****

 日付が変わる直前に、仁朗は自宅に到着した。デザイン性と機能性を両立させたタワーマンション。六階の角部屋のロックを解除し、ドアを開けば暖色の灯りが漏れてくる。

「ただいま」

 玄関で靴を脱ぎ、ひっそりと同居人に帰宅を知らせるが、出迎えは無い。フローリングの廊下を足音を立てずに進み、自室へと引っ込む。汗ばんだ喪服から普段着に着替えれば、ようやく肩の力が抜けてくる。靴下まで履き替えて、スリッパに足を通せば完璧だ。
 次いで、誰もいない筈のリビングに向かった。どれほどショッキングな現場を体験しても、結局腹は減る。

 仁朗は疲れ切った体を叱咤しながら、ドアノブを捻り――立ちすくんだ。

「あ……、お帰りなさい」
「悠介。お前、待ってたのか?」
「大丈夫です、ずっとじゃありませんから。そろそろ戻られるかな、と思って」

 柔和な微笑みを浮かべた茶髪の青年・橘悠介(たちばな・ゆうすけ)がキッチンに立ち、鍋を火にかけていた。ほわほわとしたくせ毛で、袖の広い白Tシャツがよく似合う彼だが、今は腕まくりをして料理に集中している。
 見慣れた光景に、張り詰めていた仁朗の心はほぐれ始めた。テーブルの上には一人分の茶碗にサンマの塩焼き、いんげんとじゃが芋の煮物。食欲をそそる香りに腹が鳴る。

「お味噌汁。今温めているところなので、先に食べていて下さい」
「悪いな」椅子に腰掛けながら、仁朗は悠介を労う。その声音はしおらしい。「……いただきます」

 ごく短い会話だったが、その声音から悠介は仁朗が胸に秘めた痛みを察する。それは優しすぎる人間特有の敏感さだった。

 味噌汁をよそった椀を差し出すと、仁朗は箸の動きを止め、何かを押し殺すように目を細める。
 手当てを求めたいのに素直に言えない。片割れの不器用さに苦笑した。

「お疲れさまでした。……頑張りましたね。偉い、偉い」

 仁朗の髪を、慈しみに満ちた掌でそっと撫でる。従順で世話好きな悠介は、ジュウシマツにそっくりだ。

「仁朗さん、僕はわかってますから。大丈夫です、泣かないで」
「――泣いてない」
「涙が出ているかなんて些細なことです。問題は、仁朗さんが凄く辛いっていう事実だけ」

 伝わってくる体温と柔い感触に、仁朗は唇を噛んで俯く。ここだけだ。決して否定せず包み込む悠介にしか心境を晒せない。

「可愛い、女の子だったんだ。友達も沢山いて……。なのに、八年しか生きられなかった。それだけでも無念なのに、母親が現実逃避して見送ってくれなかったら? そんなのは、あんまりだ」

 ようやく本音を零した仁朗に、悠介は安堵の息を吐く。どんな感情も、溜め込み過ぎれば破裂してしまう。既に散々に擦り切れている仁朗に、これ以上の我慢は厳禁だと悠介だけが知っていた。

「秋刀魚、焼き立てじゃなくて申し訳ないですけど。――食べてくれますか? お腹が一杯になれば、いい夢を見れる筈だから」
「……ああ」

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