干天の慈雨【四】

【天泣。】

1

 重苦しい雰囲気が漂う白樺ホールディングスの社長室で、仁朗は代表取締役社長を勤める父・来栖浩一郎(くるす・こういちろう)と対面していた。
 椅子に掛けた浩一郎は、以前会った時よりも老け込んで見える。「葬儀業界の風雲児」と呼ばれるにふさわしいカリスマ性も、今は鳴りを潜めていた。

 険しい表情を浮かべた浩一郎のデスクに広げられた、三枚の用紙に印刷されているのは、既に公開済みのWEBニュース記事。

【化けの皮が剥がれた「白樺ホールディングス」! 傲慢な対応を受けた被害者が一部始終を告白】

 先に担当した自死遺族の男性が、仁朗へのクレームをメディアに垂れ込んだのだ。
 ヒアリングの再開後、「何を言っても無駄みたいですから」と仁朗を睨みつけた男性は終始無難な受け答えを繰り返した。葬儀でも大きなトラブルは生じなかったのだが、こうして事態を急変させることを狙っていたのか。

【最悪な対応をされました。妹が好きだった物も、棺に入れさせてもらえなかった。】
【そのスタッフは殺人事件の被害者遺族だったらしく、正直同情はします。それでも、あの態度は我慢できなかった。】

 浩一郎は再び椅子の背もたれに身を預け、深く溜息を吐いた。自分の認識の甘さを恥じずにはいられないのだろう。現代の情報拡散スピードは凄まじく、既に多くの叱責やイタズラの電話が掛かってきている。しばらくの間、上層部の人間は布団で寝られないだろう。

「仁朗、お前には謹慎を命じる。はっきり言っておくが、このまま我々がお前を雇い続ける保証はできん」
「承知しました。ご迷惑をおかけし、申し訳ありません」

 解雇宣告とも取れる言葉にさえ、仁朗は抗弁しない。胸中密かに荒れ狂っても、見抜ける人間はここにはいなかったのだ。
 無言で退室しようとする息子の背に、父は堪らず声を荒げた。

「――これ以上、笑美の事件に拘るな。死人は戻ってこない!」

 だが、仁朗は僅かに立ち止まったものの、頑なな態度を崩さない。双眸で燃え滾るのは、異様なほどの執着と苛立ちだ。

「死んだ人間は儚い。『姉さん』の事を、俺は絶対に忘れない」

 ……やがて、置き去りにされた浩一郎は、こみ上げる無力感に頭を抱える。

「三人も子供がいたのに」乾いた笑みに、唇を歪ませた。「もう誰も、傍にはいない。どうしてだ。どうして――!」

2

*****

 「著名な経営者の一人娘が誘拐され、殺害される」――二十五年前に起きた、衝撃的な事件。当時の報道は加熱の一途を辿り、世間も好奇心を剥き出しにした。

 今でも毎晩、仁朗は同じ夢を見る。セピア色の視界の中、懐かしい音色が響けば胸が熱くなった。

『仁朗。貴方の夢は何? ――大人になったら、どんな風になりたい?』
『んーと……。あ。僕ね、おもちゃ屋さんになりたい! お姉ちゃんは?』

 姉――笑美を、両親は目に入れても痛くない程に愛していた。

 だが、甘やかされて笑美の人格が歪んだかといえば、否。当時高校生だった笑美は絵に書いたような優等生で、年下の兄弟にも溢れんばかりの慈しみを注いでいたのだから。

 兄の市朗(いちろう)は物静かな読書家で、弟を構うよりも文学の世界に没入していたいようだった。そのせいもあって、仁朗はもっぱら笑美とばかり話をする。
 けれど、三姉弟がバラバラだったわけではない。笑美を介して、確かに繋がり合っていた。

『お姉ちゃんは、ピアニストになりたいなぁ。一回でいいからコンサートを開いて、私の音を沢山の人に聴いてほしいの』

 眩い希望を口にし、笑美は白魚のような指で仁朗の髪を撫でてくれる。
 毎朝ピアノの練習を欠かさなかった笑美。時折テンポが狂うけれど、表現力が豊かで瑞々しくて――。未成熟な音楽でも、仁朗は大好きだった。

 身も心も美しく、周囲を癒やしてくれる女性――それが笑美だった。

『ねぇ、お父さん。お姉ちゃんは?』
『――仁朗。向こうへ行っていなさい』
『どうして、帰ってこないの? 僕、お姉ちゃんと遊びたい……』

 神は善良な人間ほど手元に置きたがるという。もしも、一欠片の醜さがあれば、彼女は今も生きていただろうか?

 行方不明になった二週間後に、「無言の帰宅」をした笑美。拘束されていた手首が擦り切れ、胸に八箇所もの刺し傷が残る無残な有様だった。

 遺体発見から半日も経たない内に、視聴率目当てのマスコミが関係各所に押し寄せた。笑美が通っていた高校や、白樺ホールディングスの事業所。そして勿論、来栖家の自宅にも。
 父に向けられる数え切れないマイクとカメラを、仁朗は窓越しに見つめていた。未だ状況の理解は出来ないが、見えない悪意が渦を巻いている事には流石に気付く。

 耐えかねた市朗が二階の窓から分厚い辞書を投げつける動画は、何度も公共の電波で晒され、今でも動画サイト上に残っている。
 ……この出来事をきっかけに、市朗は人間不信に陥った。自室の外にほとんど出てこなくなり、今も状態は改善していない。

 リンチ同然の報道態勢は数週間続き、仁朗もいつしか「姉はもう帰ってこない」と悟った。すぐに取り乱さなかったのは、感情が麻痺していたせいだ。
 ようやく泣きじゃくる事が出来たのは、容疑者逮捕の速報が入って三日後の朝。緊張の糸が切れ、溢れ出した涙は塩辛く、頭が痛くなっても尚止まらなかった。

3

*****

 大粒の雨がアスファルトに当たり、音を立てて弾ける。視界は最悪だというのに、仁朗は知らずアクセルを強く踏み込む。ハンドルさばきも精彩を欠き、時折急ブレーキも掛ける羽目になった。
 やがて駐車場に停められた黒のSUVは、追い詰められた主を恨めしげに見送った。

 頭の中で不協和音が鳴り響く。思考がぐちゃぐちゃに掻き回され、何一つまとまらない。

 予定外のタイミングで帰宅し、喪服のままリビングまで入ってきた仁朗を、悠介は驚きの表情で出迎えた。青白い顔をした仁朗は、途切れ途切れに説明する。謹慎を言い渡された事。更に、解雇の可能性まで仄めかされた事。
 余計な口は挟まず、悠介はただそれを聴いていた。仁朗の目をじっと見つめながら。

 そして、場に沈黙が満ちた後――優しく、けれど甘やかしはせずに問いかける。

「仁朗さんは、これからどうしたいんですか?」
「……解らない………」

 酷な事をしている自覚はある。悠介だって、ずっと二人ぼっちの異様さから目を背けてきた。多分、今決断できなければもう抜け出すチャンスはない。

「何となく、決めたらいけないんです。僕がアドバイスできるのはたった一つだけ。『心を無くしたフリ』はもう辞めませんか?」
「フリ?」仁朗が苛立ちを顕にした。「何を言っているんだ」

 慰撫したい己を叱咤し、悠介は一層深く切り込む。

「目を背けちゃ駄目。前に進まなくちゃ――」
「っ、うるさい!」
「耳を塞がないで。……仁朗さん、僕は」

 同居を始めて以来、ここまで緊迫したやり取りを交わすのは初めてだった。仁朗は動揺し、何もかもに見捨てられたような心地を味わう。

「黙れ……」銃弾そのものの怒声が飛び出したのは、とうとう理性が限界を迎えたせいだった。「お前は誰のおかげで生きているんだ。それ以上くだらないことを言うなら、出ていけ!」

 痛いほどに静まり返った空間では、すべてがスローモーションに映る。ひゅっ、と息を飲んだ悠介が、踵を返した。淡い色をした唇を痛ましく震わせながら。
 呆然自失の仁朗には、玄関が開く音が妙に大きく聞こえた。

「ゆう、すけ」

(――手を離すのか。あれほど力になってくれた存在を。)
(――痛みから目を背けて、針のむしろの様な人生を続けていくだけなら。生きている意味は、何だ?)

 ぐちゃぐちゃの頭の中が、迫る喪失によって晴れていく。指先がぴくり、と震えた。……動ける!
 仁朗は駆け出す。停滞しきった温い世界を飛び出し、たった一人の「片割れ」を追いかけて。

「悠介――待ってくれ!」

 エレベーターに乗り込む寸前、俯いた悠介が叫び声に立ち止まる。今にも消えてしまいそうな細い背中を、仁朗はきつく抱きしめた。
 互いの表情はわからない。けれど、漏れ聞こえる嗚咽だけが、二人が泣いている事実を証明していた。

*****

 連れ添って部屋に戻った後。仁朗はリビングで椅子にぼうっと座って、昼食を作る悠介を眺めていた。
 空腹は感じない。けれど悠介はいつも通りにキッチンに立ち、野菜スープが完成すれば食べるように促すのだ。のろのろと口に運んだブロッコリーは温かく、噛み込むと柔く砕けて喉を滑っていく。

「目が覚めたら、また話をしましょう。……今は休んで」

 食事が済むと、悠介は放心しきっている仁朗をベッドに寝かしつけ、忍び足で和室へと向かった。独りになって気が抜けた途端、癒えきらないトラウマが蘇って涙目になる。それでも――淀んだ天気に沈む、笑美の仏壇の前で正座し、語りかけた。

「どうか、力になって下さい。仁朗さんが、自分自身を取り戻せるように」

 真っ白な絹のような祈りは、微睡み始めた仁朗の耳にも届いた。

「ごめん、姉さん」

 目の奥がツンとして、喉の奥から何かがせり上がってくる。うつ伏せに抱いた枕に顔を埋め、仁朗は謝罪の言葉を漏らす。ただの現実逃避かもしれないけれど、「果てしない場所に行きたい」という願いがこみ上げて止まらない。

「少しだけ、独りぼっちにしてしまう。――出来るだけ早く、帰ってくるから」

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