干天の慈雨【五】

【五:白日】

1

あと一時間で夜が明ける。Yシャツと紺のニットベストを身につけた仁朗は、車のアクセルを踏み込んでいく。
助手席に座るトレンチコート姿の悠介は、寝入ってしまいそうになるのを堪える。真っ暗な世界に走るライトの線が美しくて、ずっと眺めていたかったから。

「……悪い、悠介。眠いか?」
「大丈夫ですよ。こんな時間にドライブした事は無いので、凄く新鮮です」

会話が途切れるが、居心地の悪さは感じない。今更無駄に気を使うような、短い付き合いではなかった。

*****

今朝は二人とも早く目が覚めた。多分、大きなストレスがかかり、眠りが浅くなったせいだろう。
寝ぼけ眼で洗面台で歯を磨く悠介に、開口一番に仁朗は言った。

『海を見に行こう。……今までとは、違う景色が見たくなった』

唐突すぎる申し出は、最早わがままの類だったかもしれない。拒否される可能性だって十分にあった。
しかし、うがいを済ませた悠介は躊躇なく首肯するのだ。澄んだ表情のまま、真っ直ぐに仁朗の瞳を見つめて。

『それが、仁朗さんの答えなら』

2

 秋の海はきん、と冷えていた。朝焼けに照らされた砂浜はゴミも無く、真っ白な美しさを保っている。

「流石に誰もいませんね。でも、凄く静かで、神秘的」

駐車場から砂浜へ続く階段を降り、悠介はスニーカーと靴下を脱いだ。素足のまま、サクサクと音を立てながら歩き出せば、足跡が行列を作る。
仁朗は階段の半ばに腰掛けて、砂の感触を楽しむ悠介を眺める。寄せては返す波音が、鼓膜を震わせた。

「綺麗、だな」

凪いだような、穏やかな気持ちだった。「心が洗われる」だなんて、陳腐な言葉だと思っていたけれど。

意味もなく、仁朗は悠介の進んでいく先へと目を向ける。どうせ同じ景色が続いていくだけ――ではない。息を呑んだ。

「っ!」

海に突き出した堤防の端に、人影がある。しきりに下を覗き込み、明らかに「躊躇って」いる!

弾かれるように駆け出す。理不尽に奪われる命を、もう見たくはない。
「死」の境界線を越えた命には、誰も手を差し伸べることが出来ない。生きる理由は平等に与えられている筈なのだ。悠介と出会い、瀕死だった仁朗の心が息を吹き返したように。

*****

長い黒髪とワンピースの裾が、塩風に舞い上がる。まだ十八歳だというのに、痩せぎすの少女の瞳は輝きを無くしていた。

「もう、終わりにしたいのになぁ……。意気地なし」

死にたいと願えば願う程に、一層強く生きたいと思うのは何故なのか。涙が零れるばかりで、体が思うように動かない。無に戻るのが怖くてたまらなかった。

「ごめん、ね。私、はっ……!」
「お、い。やめろっ!」

少女がぎゅっ、と目をつむるのと同時だった。駆けつけた仁朗が、その背に息切れ混じりに呼びかける。

「誰? ……口出し、しないでっ。あたしは、もう――」
「っ、ふざけるな。『生きたい』と泣いている癖をして……! 命を、粗末にするな」

図星を突かれた少女は、ビクリと肩を震わせる。 初対面なのに、互いの声が懐かしく感じられる――それは深傷を負った者同士にしかわからない感覚だった。

「俺は、来栖仁朗。姉を殺された人間だ」

過去を曝け出した仁朗に、少女は振り返ったものの何も答えない。ただ、ろくに物を入れなかったせいで腹が鳴り、死ぬタイミングを逃した事だけは理解する。急に世界が現実味を取り戻して、笑いがこみ上げた。

「腹が、減ってるなら。何か食べさせてやる。……ついて来い」

*****

砂浜に取り残された悠介は、一部始終を眺めていた。

「本当に、優しすぎますね。……カッコいいですよ、仁朗さん」

独りきりで、そっと微笑む。”自分と同じに、仁朗に命を拾われた少女”――湧き上がる嫉妬心に勢いよく足裏で地を叩けば、白い砂が僅かに舞い上がる。
今後どう生きていくのかを、ここで二人きり話し合うはずだった。だのに、突然赤の他人が入り込んできたのだ。

仁朗との距離が遠い。身も心も置き去りにされた気がして、心臓がいやに大きく脈打った。

3

*****

『ちっちゃなおてて。……可愛い』

物心ついた頃、少女は毛布のような「家族の愛」に包まっていた。優しい両親に見守られ、はしゃぎまわって。時に叱られ、叩かれることもあったが、非常識なレベルでは無く。
世間の汚さを知らない子供故に、毎晩「明日はどんな事があるかな?」とワクワクしながら眠った。

『今度「キョウダイ」が生まれるわよ。うんと可愛がってあげてね』

ある日、病院から帰ってきた母はほどける様な笑みを浮かべ、お腹を擦ってみせた。その言葉を聞いた少女はキョトンとしたが、やがて喜びを爆発させる。

『! ママ、赤ちゃんができたの?』
『そう。まだ男の子か女の子かはわからないけどね』

少女はまだ膨らみもわからない母のお腹を、そっと撫でた。「新しい家族」が、愛おしくてたまらない。

『ねぇ、お姉ちゃんだよ。聞こえる?』

けれど――生まれてくる寸前に、小さな命は両親ごと飲酒運転のトラックに押し潰されてしまった。
少女は家族の葬式に出られなかった。自らもこの大事故で重傷を負っていたからだ。皆が火葬され、骨壺に収められた時も、繰り返される激痛とフラッシュバックに滂沱の涙を流す事しかできずに。

退院後、児童養護施設に入所した朝の心細さは忘れられない。リーダー格の子供に目をつけられ、理不尽に虐げられる悔しさも。職員は、誰一人助けてくれなかった。

だから、少女は「信じる」ことを辞めたのだ。

*****

悠介は海岸線沿いのコンビニで、飲み物と食料を買い込んでいた。仁朗にはブラックコーヒーとサンドイッチ、悠介自身は紅茶とサラダパスタを選ぶ。しかし、少女に何を選べばいいのかがわからない。

「……返事くらい、してくれてもいいんじゃない?」

窓の外に視線を向けると、駐車場で仁朗が少女に付き添っているのが見える。口を利かない少女に諦めた様子の仁朗は、スマートフォンを操作しつつ、曇り始めた空に時折目を向けていた。

黒く汚染されていく自身の心に、悠介は気付いていた。それでも「お腹が空いているなら」と大きめの弁当を手に取り、カゴに入れる。女性に人気のブレンド茶も一緒に。

「いらっしゃいませ。温めますか?」

レジに持っていけば、威勢よく店員が問いかけてくる。悠介は反射的に答えた。

「いえ、結構です! お箸だけ、お願いします」

弁当のメインディッシュはチーズの載ったハンバーグだった。温かいほうが美味しいに決まっているのに、歯止めが効かない。認めたくない激情が、罪悪感を塗りつぶす。

「お待たせしました。――ごめんね。レンジが故障してるらしくて、お弁当温めてもらえなかったんだ」

駐車場で仁朗達と合流して、すぐに悠介は言い訳をした。車止めに座る少女は一瞬不満げな表情を浮かべたが、すぐに弁当と割り箸をひったくって封を切る。空腹すぎて、より好み出来る状態ではないのだろう。
仁朗は車外で食事を始めた少女に戸惑うが、未だ人通りがまばらな事を確認すると、溜息を吐きつつサンドイッチを手に取った。

「立ち食いしてる仁朗さんて、何だか珍しい」
「ああ、こんなマナー違反は久しぶりだ」

悠介がわざと朗らかに語りかければ、仁朗はいつもの調子で淡々と答える。慣れ親しんだ二人きりの会話が、少女を斬りつけるとは知らずに。

冷え切ったハンバーグは、お世辞にも美味しいとは言えない。味が無駄に濃い上に、固い肉の歯ごたえが辛かった。一噛みごとに白く固まった脂がせり出して、不快感が増していく。
ペットボトルのブレンド茶に、少女の手が伸びる。流し込まないと食えたものではなかったのだ。

眉間にシワを寄せていても、仁朗達は気付かない。「結局、ここにも私の居場所は無かったんだ」――少女の乾いた目に、また絶望の気配が忍び寄った。

4

*****

……ぽつん、と降り始めた雫が、真新しい染みを作る。

「予報が外れたな。傘を買ってくる」
「! あ、僕が――」

一番先に食事を終えた仁朗が、コンビニに入っていく。パスタを口に運んでいた悠介の心臓が、ささやかな嘘がばれる不安に大きく収縮した。
こみ上げる不安を紛らわせようと、視界の外に追いやっていた少女に意地悪くぼやいてしまう。

「ひょっとして、喋れないのかな? ――面倒くさい子だなぁ」

途端、中身が残る弁当を投げ捨て、少女が駆け出した。駐車場を抜け、歩道へと逃げて行く。自分では追いつけない速度に、悠介は一瞬息を詰まらせたものの、大声で仁朗を呼んだ。

「仁朗さん――!」

咄嗟に仁朗は窓の外に目を向け、状況を把握する。そして、レジの途中だった傘をほうり出して走り出すのだ。

「お客さん、これどうするんですかっ」
「後でまた来ます! ごめんなさい」

動転した店員の問いかけには、悠介が答える。その頃、既に仁朗は歩道橋を登り始めた少女との距離を詰め始めていた。

歩道橋の真ん中に辿り着いた少女は、息を切らしながら安全柵をよじ登ろうとする。だが、身を投げる前に腰まわりを仁朗に抱き込まれ、身動きが取れなくなってしまう。

「離せ! 離せよっ」
「っ、暴れるな。馬鹿!」

泣きじゃくりながら両手を振り乱す少女の目から、ぼろぼろと涙が零れ落ちた。

「アンタの連れだって、私を邪魔にしてるじゃないか……! 自己満足に、アタシを使うなっ」
「何を訳のわからない事を――」

半狂乱の叫びに、仁朗は困惑する。「あの悠介が、誰かを敵視するなんてあり得ない」――弁当のことだって、ただの偶然だと信じていた。
けれど、改めて考えると違和感もある。レンジが使えないのに、果たして貼り紙の一つもしないものだろうか?

「わかっているなら、もう僕らを引っ掻き回さないでよ。仁朗さんも、そんなわからず屋は放っておきましょう?」

瞬間、階段を登りきった悠介が、悟ったような声音で吐き捨てた。仁朗が疑念を抱いたことに気付いた、その顔からは表情が削げ落ちている。
仁朗の頭の中が真っ白になる。それでも、少女を掴まえる力は緩まない。こちらに近寄ってはこない悠介は、更に畳み掛ける。

「僕を、選んで! これまでずっと貴方の傍にいたのは僕だ。僕だけが……っ」

未だ解放されない事に驚いた少女が、仁朗の顔を見る。誰のことも見捨てられない、甘くて馬鹿な青年は、ぶつかった視線に堪らず吠えた。

「五月蝿い……! 俺は『誰のことも殺さない』。それ以上でも、それ以下でも無い!」
(――「目の前で消えそうな命があるなら、誰であっても助ける」。姉さんを守れなかった時の痛みは忘れない。)
(――この信念を否定するなら、最早一緒には生きられない。例え、それが己の半身であっても。)

数秒だけ動けなくなった後、三人はズルズルとその場にへたり込む。無性に泣けてきて、どうにもならなかった。

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