溺れる奇麗な白魚へ。
安普請のアパートの二階で、恵美と同棲を始めて数ヶ月。梅雨に入ってすぐ、土砂降りの雨が降った。
日が暮れてもやまないそれにうんざりしつつ、 コウモリ傘をさす僕は帰路を急ぐ。とっぷりとした真っ暗闇で、スーツと革靴を台無しにしないよう気をつけながら。
「ただいま~。……あれ、恵美?いないのか?」
部屋が暗い上に、カーテンも開けっ放し。とはいえ、スーパーにも蛍の光が流れるほどの時間帯だ。こんな雨の中を、どこに出かけるというのか?
とりあえず電気を点け、うろうろと部屋――家賃はケチったものの、一応2DKを借りている――を歩き回って、黒いロングヘアの彼女を探し回る。すると、とんでもない光景に遭遇して、僕は小さく声を上げた。
――彼女は一人、小さな屋根しか無いベランダでずぶ濡れになっていたのだ。
「おい、恵美!何やってんだ、風邪ひくぞ」
窓を開け、恵美に荒い口調で声をかける。……正直、彼女の気が触れたのではないかと怖かったのだ。しかし、恵美はこちらを振り返ると、いつもどおりの微笑みを僕に返した。その姿がまるで陸に上がった人魚姫のようで、何だか目が離せなくなった。
「昔、おじいちゃんが言ってたわ。――雨の日は世界が溺れているんだって。地面はなすすべなくぐしょ濡れになって、動物は草木に隠れたり巣に寵もったりする。ある意味、一番命が無力な時だと思わない?」
恵美は僕を手招きして、ベランダに呼び寄せようとした。でも僕は動けなかった。スーツの型崩れを気にしたとかではなくて、本当に足が動かなかったのだ。
「親元から離れて自由になったら、雨に思い切り濡れてみたかったの。傘っていう作り物を捨てて、自由に振る舞いたかった。ねえ、ほんとに凄い開放感」
もう僕は言葉を発さなかった。透明な表情で雨に溺れ続ける恵美を、じっと眺めていた。
僕は濡れていないはずなのに、灰かな肌寒さを感じた。雨音が響いている。”五感は互いに影響しあっている”という、いつかのテレビ番組の一節を思い出した。
「ふふ、気持ちよかった。シャワー浴びてくるね」
「湯船にも浸かれよ。じゃないと、絶対具合悪くなるぞ」
僕が持ってきたタオルで髪を拭くと、恵美は風呂場に向かう。その背中を追って視線を動かすと、僕が帰り道で差してきた、無愛想なコウモリ傘がしずくを垂らしている。玄関の扉に立てかけたままで放置されていたのだ。
「そういえば、うちにある傘はほとんど黒とか茶色だったな」――そう気付いた時、 僕は思わず恵美に呼びかけていた。
「――今度、綺麗な傘を買いに行こう。恵美にもっと似合うやつ」
「あら、本当に? そんなつもりじゃなかったのよ。でも、そうね。今の傘じゃ、あいあい傘も口マンティックに見えないしね」
やがて風呂場から水音が聞こえ始める。僕はインターネットで最近の傘の流行を調べ始めた。 雨に濡れなくても、恵美の美しさを引き立てるとびっきりを探して。
【今夜ぐしょ濡れの君を見て、僕は恋をし直したようだった。】
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